地震のこととか

 家にはほとんど寝に帰るだけみたいな日々が続いていて、このブログもまた放置状態になってしまった。
 出張先や新幹線の中で少し文章を書いてみようなどと思い、ここに書いた記事の原テキストやデータの類をUSBメモリに詰め込んで持ち歩いていたが、それを紛失してしまった。次回レヴュー予定のビル・エヴァンスについても、この前、出張先のホテルで一文を書いたのだが、これもそのUSBメモリに入れてあったので、無くなってしまった。
 今日は久しぶりの休みなのでビル・エヴァンスのことを書こうと思って、でもこの前書いたことはアイデア自体に飽きてしまって、一から書き直す気もなく、何か別のスタンスで書こうと思っていたのだが・・・朝からの地震騒ぎで、なんだかメゲてしまった。
 僕の親の実家は宮城県で、親戚連中は主に宮城県の北部にいて全く他人事でもないので、朝からずっとTVの地震のニュースを見ていた。最初、死者は2人からだんだん増えていったが、情報が錯綜して、マスコミは「結局何人死んだんだ?」の確認に躍起となる。逆にいえば、死者・行方不明・負傷者の数が確定すれば、初期報道は一段落する。あとは、ワイドショー・レヴェルの興味に移行する。

 そういえば、先日、ミャンマーで長く仕事をしている知人が一時帰国していて、ちょっと話す機会があった。先般のサイクロンの時もヤンゴンにいて凄惨な被害を目の当りにしている。が、首都では鉄筋やちゃんとした木造の建物が多く、被害はそれほどでもないようだ。ひどいのは田舎の泥で固めたような粗末な建物。文字どおり”軒並み”やられた。死者数10万人超えとか言われるが、生者の救出はおろか、泥や家屋の下に埋まったままの死体を掘り起こす金も人手も今の政府にはなく、確認は不可能。「10万も20万も大差ないよ・・・」とシニカルに語った彼の言葉が頭に残る。

 サイクロンの後まもなく中国の大地震が起こったので、ミャンマーの件は早くも忘れ去られたようにニュース・ネタにならなくなった。四川の地震の死者数は8万6000人以上とか聞くが、中国のことだから実際は10万人は下らないんだろうなあ、などと勝手に想像する。あの国にとっても、8万も10万も20万も大差ないだろう・・・か?
 ミャンマーの軍事政権や中国政府の対応を人道的立場から非難するのは簡単だが、実情はそんなに単純ではない。僕はブログでのポリティカルな発言は自粛しているので、その辺の話はやめておく。

 実は、数年前のクリスマスの頃、僕はタイのプーケットにいて、スマトラ沖地震に伴う大津波に出くわしたのだった。あの時は、プーケットでは8000人の死者。インド洋・アンダマン海沿岸の死者数は20万とも30万とも言われた。その日、僕はちょうど高台にいて、下のビーチが波にさらわれるのを見ていただけだったが、前日には、一番被害の大きかったパトン・ビーチに半日いたから、ちょっとタイミングが悪ければ・・・の可能性はあったのだ。

 こうした大災厄の話を聞くたびに、僕はひとつの詩を思い出す。
 ウェールズのディラン・トマス(1914〜53)という詩人が書いた、”A Refusal to Mourn the Death, by Fire, of a Child in London”(「ロンドン空襲で焼死した子供の追悼を拒否する詩」)という詩だ。

A Refusal to Mourn the Death, by Fire, of a Child in London

Never until the mankind making
Bird beast and flower
Fathering and all humbling darkness
Tells with silence the last light breaking
And the still hour
Is come of the sea tumbling in harness

And I must enter again the round
Zion of the water bead
And the synagogue of the ear of corn
Shall I let pray the shadow of a sound
Or sow my salt seed
In the least valley of sackcloth to mourn

The majesty and burning of the child's death.
I shall not murder
The mankind of her going with a grave truth
Nor blaspheme down the stations of the breath
With any further
Elegy of innocence and youth.

Deep with the first dead lies London's daughter,
Robed in the long friends,
The grains beyond age, the dark veins of her mother,
Secret by the unmourning water
Of the riding Thames.
After the first death, there is no other.



 圧倒的に荘厳なエレジーの響きと、それを逆説的に用いたレトリックでもって、最終行の”After the first death, there is no other”へと落とし込むテクニックは、見事というしかない。この最終行については、いろんな人がもっともらしい事を言っているが、中では吉田健一の下記の一文がすばらしい。

・・・数字を挙げることで無意味になった死というものをそのもとの姿に返し、我々はここにある言葉に欠けているものを知らない。我々は黙るだけであって、それは既に苦痛を越えたことであるが、これは救いであるよりもむしろ、詩の静寂と呼んで差し支えないもので、そこでは一人の子供の死が一切のものとの比較を絶すると同時に、またそれ故に、それは一羽の鳥が飛んでいるのでもいいことになる。(『英国の近代文学』)



2008/06/14記

2008年06月15日 未分類 トラックバック(-) コメント(2)

The House of Blue Lights / Eddie Costa (1959)

Jazz '50s (95)

ハウス・オブ・ブルー・ライツハウス・オブ・ブルー・ライツ
(2003/05/21)
エディ・コスタ

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 今日は女房と大喧嘩したついでに、部屋に閉じこもってエディ・コスタ周辺のいくつかのアルバムを連続して聴いてみた。

(1)『Eddie Costa-Vinnie Burke Trio』(1956)
 Eddie Costa(p,vib), Vinnie Burke (b), Nick Stabulas (ds)

(2)『Tal』(1956)
 Tal Farlow(g), Eddie Costa(p), Vinnie Burke (b)

(3)『New Jazz Conceptions』(1956)
 Bill Evans(p), Teddy Kotick(b), Paul Motian(d)

(4)『Eddie Costa Quintet』(1957)
 Art Farmer(tp), Phil Woods(as), Eddie Costa(p,vib), Teddy Kotick(b), Paul Motian(ds)

(5)『Guys And Dolls Like Vibes』(1958)
 Eddie Costa(vib), Bill Evans(p), Wendell Marshall(b), Paul Motian(ds)

(6)『House Of Blue Lights』(1959)本作
 Eddie Costa(p), Wendell Marshall(b), Paul Motian(ds)

 こうしたエディ・コスタの参加アルバムを聴いていると、”個性的”という一般的なコスタ評に反して、周囲のミュージシャンや各々の曲想やその場の雰囲気に合わせて巧みにスタイルを変化させていて、むしろ迎合的というべき器用さに驚く。
 ヴィニー・バークとのコ・リーダー作(1)では、バークのベースを引き立てるようにややシンプルで控えめなプレイ(意外にもラス・フリーマン的なノリだったりする)を見せたり、バラッドではバド・パウエル風だったりする。タル・ファーロウとの共演(2)では、ファーロウの低音弾きに対応するようにあるいは競うように、あの怒涛の低音連打が炸裂する。2管のクインテット演奏(4)でのソロはむしろ標準的なハード・バップ・スタイルに近いし、バッキングでは堅実なコンピングで見事な脇役を演ずる。ピアノにビル・エヴァンスを配して自らはヴァイブに徹した(5)では、エヴァンスの繊細かつシャープなピアノに合わせるように鋭い切り込みを見せる。
 コスタは、基本的には、渡されたどんな譜面でも初見で完璧に演奏できる優れたスタジオ・ミュージシャン(コマーシャルな仕事を含め)として重用されたが、コンボ演奏でも、おそらく50年代のどんなスタイルでもそれなりに(ピアノでもヴァイブでも)演奏できたんじゃないか、と思う。

 この器用さが八方美人で終わらないためには、やはり自分だけの比類のない個性的なスタイルを誇示する必要があったわけで、それがコスタの最初にして最後のピアノ・トリオ・アルバム『House Of Blue Lights』で発露したといえる。
 が、この”個性”が彼の内奥から自然に噴出した表現であったのか、あるいは時代の様々なスタイルとその行き詰まりを自分なりに吸収・分析したうえで戦略的に打ち出した”手法”であったのか、は僕にはわからない。

 このアルバムを一通り聴くと、例のすこぶるパーカッシヴな低音の連打(ヴァイブ奏法のピアノへの適用といわれる)もさることながら、ぎりぎりの不協和音やビートの破壊、執拗なシンコペーションの継続(リスナーは頭を見失う)、大胆なグリッサンド、2オクターブ・3オクターブに渡るオクターブ奏法・・・etc.といったかなりアヴァンギャルドな手法が頻出する。が、一方ではその合間に、レッド・ガーランドばりの流暢でメロディアスな高音のシングル・トーンでのフレーズが配される。
 というよりは、基本的にはオーソドックスなバップ的規範と枠組みをベースに、その変形とデフォルメを繰り返しながら音楽が進行していく、という感じ。ウェンデル・マーシャル(b)とポール・モチアン(ds)の名手二人には(テーマ部等の掛け合いを除き)ソロ・スペースが全く与えられず、ひたすらスクエアなビートを維持する。この二人が刻むビートを一本の軸として、コスタはまるでこの軸を命綱にするように、限界まで逸脱・脱線を繰り返し、そうしながらもいつしかこの軸に戻ってくる。

 ところで、普通、アルバムのパーソネルなんぞは買って最初に聴くときぐらいしか見ないから、その後はあんまり気にしないし、時にはメンバーを勘違いしたまま聴いていたりもするが、こうして並べてみると何となく当時の東海岸(NY)における白人ジャズメンの人脈が見えてきたりする。
 ヴィニー・バーク、テディ・コティック、ポール・モチアンといった白人サイドメンを軸にして、エディ・コスタとタル・ファーロウ、そしてビル・エヴァンスが結びつく。
 そういえば、AltSaltさんのブログに以前こんなことが書いてあった。

一般にジャズの歴史書には、スタン・ケントン (Stan Kenton) 楽団OBの多くが西海岸(ロス・アンジェルス)に落ち着いてウェストコースト・ジャズの興隆に寄与したことが大きく取り上げられている。でも、それだけでなく、もうひとつの流れとして、ハーマン出身者たちが東海岸(ニュー・ヨーク)にふみとどまってほぼ同時期に白人中心のジャズのスタイルを形づくったことは、もっと認識されていいと思う。
この流れがたどりついたひとつの結果がビル・エバンズ (Bill Evans) やエディー・コスタ (Eddie Costa) らのジャズであることは、歴史的事実なんだから。


 慧眼というべし。
 ジャズの”歴史書”にあるように、50年代初頭から隆盛したウェストコースト・ジャズ(白人)が50年代中葉にはすたれ、代わって東海岸のハード・バップ(黒人)が主導権を握る、といった文脈で50年代を眺めると、東海岸の白人ジャズの系譜はすっぽりと抜け落ちる。

 エディ・コスタもモダンジャズの歴史から抜け落ちた一人だった。
 57〜59年あたりにほんの一瞬、批評家筋の注目を浴びた(57年にダウンビート誌の国際批評家投票でピアノとヴァイブの新人賞をダブル受賞)が、62年に自動車事故で夭折するとすぐに忘れ去られた。代わりに、やはり地味なサイドメン仕事の繰り返しでくすぶっていたビル・エヴァンスは、運よくマイルスに見出され、それが引き鉄になって60年代に大きな名声を博すことになる。

 歴史であれ評論であれ、多少でも記述の整合性を保つためには、多種多様な対象からその大部分を”その他大勢”として捨象するのは当然の仕事だ。が、世の中にはこうしたその他大勢の一人に目をつけてこだわり続けるマニアックな聴き手もいて、そうしたマニアの執拗なプッシュによって”奇才エディ・コスタ”もついに陽の目をみる。僕が若い頃にはほとんど手に入らなかった上に挙げたようなコスタの諸作も今では簡単に手に入るし、『House Of Blue Lights』は、SJ誌ゴールド・ディスクのロゴ付きで売られ、50年代ピアノ・トリオの傑作としてどこでも賞賛されている。

 ”マニア”という言葉の語源を遡ればおそらくラテン語の「マニエラ」という語の周辺に辿りつくが、この「マニエラ(手法)」という言葉からは、あの「マニエリスム」という美術史上の用語も派生している。やはり歴史の闇に埋もれていた「マニエリスム」の概念が、E・R・クルティウスやグスタフ・ルネ・ホッケによって現代文芸批評の手段として復活したのも、ちょうど50年代の後半だった。
 この「マニエリスム」について松岡正剛氏は次のように書いている。

マニエリスムとは、ある時代の割れ目に向かって決定的な精神の変動をおこうとした者たちが気がついた「方法の自覚」のこと、その自覚された方法の体現のことである。マニエラあるいはマニエールの意味は英語ならマナーとかマニアやマニアックになるところ、ごくごく一般的には「手法」と訳されるけれど、たんに手法主義というのではマニエリムの意味はまったくつかめない・・・


 ルネサンス盛期の円熟した手法・様式に執着し、そこから抜け出せないままに、その完成された手法を模倣し誇張しデフォルメすることに耽溺したマニエリスムは、やがて「マンネリズム」の蔑称で呼ばれることになる。
 50年代末のモダンジャズは、チャーリー・パーカーやバド・パウエルが創出した様式(フォーム、スタイル)が熟しきってマンネリズムをきたした時期だった。このビ・バップ的な規範の行き詰まりを根底からぶち壊し表現の自由を求めた”フリー・フォーム”なジャズ、あるいはバップ的なイディオムを単純化・ポップ化し黒人色を強調した”ファンキー”なジャズ、これらは、すこぶるわかりやすいし、悪く言えばひどく短絡的だ。

 エディ・コスタのこのアルバムが、バップ・イディオムあるいはモダンジャズにおけるマニエリスムだ、などと言ってみても、それがどうしたというだけの話だが、50年代終盤の”時代の割れ目”のなかで悪戦苦闘したジャズ・ミュジシャンたち、特に普段あまり光の当たらない東海岸の白人ミュージシャンの演奏をもう少し聴いてみようという自分自身の願望から、ちょっと大仰なことを書いてしまった。

2008年04月27日 50年代のJazz100枚 トラックバック(0) コメント(4)

Kelly Blue / Wynton Kelly (1959)

Jazz '50s (94)

ケリー・ブルー+2ケリー・ブルー+2
(2007/09/19)
ウィントン・ケリー

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 若い頃、ジャズ喫茶に入りびたっていた頃よくかかったアルバムだが、LPを自分で持っていた記憶はない。それでもなんだか耳タコの感じがあったのか、CDで買ってからもたぶん1回しか聴いていないと思う。なもんだから、今回全編を通して聴いてみて結構新鮮な感覚で聴くことができた。

 ウィントン・ケリー(p)、ポール・チェンバース(b)、ジミー・コブ(ds)の不動のレギュラー・トリオの演奏が4曲。ナット・アダレイ(cor)、ベニー・ゴルソン(ts)、ボビー・ジャスパー(fl)の3管を加えたセクステットの演奏が2曲。
 今日はわけあって(どういうわけじゃい?)、タイトルになった(1)「Kelly Blue」のセクステット演奏だけをレヴューしてみる。

 (1)「Kelly Blue」
 W.ケリーのオリジナル・ブルース。といっても、まあ単純なリフだが、コルネット=テナー=フルートの独特のアンサンブルが不思議な雰囲気を醸している。

 先発ケリーのかなり大胆な出だしに一瞬オッと驚く。途中もお得意のスウィンギーで力強いシングル・トーンとブロック・コード、時にアグレッシブなフレーズをうまく交えてファンキー・ムードを煽る。
 これはビル・エヴァンスの後釜としてマイルス・バンドに加入後間もない頃だと思うが、ケリーのプレイはすでにある種の確信に満ちていて、音楽に対するモチベーションの高さもひしひしと感じる。
 ケリーのピアノ・スタイルは、今言ったようにすこぶるスウィンギーで力強いタッチ、しかも一音一音明確に打ち鳴らす。才人にありがちな韜晦的ムードが一切なく、リスナーに直裁に伝わるから、聴く側にとっては非常にわかりやすい。要はぐだぐだ言うよりも、聴けばわかるタイプだから、このあとのケリーのトリオ演奏についても、ぐだぐだレヴューするのはやめた。

 バックのチェンバースとコブも当時のマイルス・バンドのリズム隊。チェンバースのベース・ラインは、適度に重く、適度に硬く、適度にモダンで、この時代のハイレヴェルなスタンダード・ベースといった感じだ。ジミー・コブは、堅実なシンバル・レガートを維持して比較的地味なプレイに終始する。この地味なコブのドラミングが、ベタな悪乗りファンクに突っ走る可能性を封じている。
 ジミー・コブはこの後も長年W.ケリー・トリオのドラマーを続けたが、ピアノとドラムスのコラボという意味では、フィリー・ジョー・ジョーンズが参加した『ケリー・アット・ミッドナイト』に尽きるが、これは残念ながら60年代。

 各自のソロの繋ぎにセカンド・リフをはさむが、半コーラスの6小節で自然にソロにつなぐとこがおもしろい。

 次が、この曲に独特の雰囲気を与えたフルートのボビー・ジャスパー。
 地元フランス(ベルギー生まれだが・・・)では、ボビー・ジャスパー賞というアウォードがあるくらい有名なジャズ・メンだが、ブロッサム・ディアリーと結婚してNYに移住(前後関係は不明なので逆かも)したのが1957年。J.J.ジョンソンのバンドでのプレイが印象に残る。もちろん本職はテナー。でも結構フルートも好んで吹いた。ジャスパーのフルートは一般にややメリハリを欠く印象が僕にはあったが、ここでのプレイは気合が入ってなかなか善戦している。この人の詳しい経歴はネットではなかなか見つからなかったが、1963年に40歳で亡くなっている(心臓手術の失敗らしい・・・)。
 ん?ジャスパーの話じゃなかったぞ・・・そうそう、Kelly Blueだった。

 で、ジャスパーの次が、ナット・アダレイ。
 アダレイのラッパは単純に言えばガレスピーのスタイルをポップでファンキーにしたっていう感じ(ちょっと違うか?)。演奏自体はパワフルでブルース感たっぷり、ハイノートも炸裂。立派な演奏とは思うが、僕はナットのコルネットの音色だけはちょっと苦手、ヒノテルより苦手。
 コルネットという楽器は、トランペットのロング管を二重巻きにして全体のサイズを短くした楽器と思えばいい。楽器の構造上、ペットよりは抜けが悪く曇った音になる。良くいえば柔らかい音だが、これを目いっぱいブカブカ吹けば潰れたような音色になるのは必至。音程もぶれやすい。
 多分、ナットは”マジオ・システム”に近い金管奏法で吹いているが、この奏法はハイノートをぶちかますにはうってつけだが、中音域は歯磨きチューブからグニュ〜っと搾り出す感じがして、僕は嫌いだ。・・・って、また脱線してしまった。Kelly Blueだった。

 え〜と、ソロの最後は、JMで一旗上げまもなくジャズテットを編成することになる絶頂期のベニー・ゴルソン。ゴルソンのテナーはゴリゴリとひたすら音符を埋め尽くすスタイルで、前ノリでどんどん先に行ってしまうのでバックはテンポを維持するのに苦心するタイプ。ここでのゴルソンは相当りアバンギャルドで、最後のコーラスではかなりハメをはずす。で、ハメをはずしきったところでソロを終わる。その後テーマに戻るわけだが、横でゴルソンのプレイを唖然として見ていたジャスパーとアダレイは、後テーマの頭に間に合わず1.5拍ほどずれて入る。みんなして何もなかったようにごまかすところが、さすが海千山千のジャズ野郎たち、妙に感動してしまった。

 というわけで、それぞれ癖のあるハード・バップ侍たちのバラエティに富んだ名人芸をいっぺんに聴くことができて、まことに楽しい1曲ではあった。

2008年04月12日 50年代のJazz100枚 トラックバック(0) コメント(0)

Blowin' the Blues Away / Horace Silver (1959)

Jazz '50s (93)

ブローイン・ザ・ブルース・アウェイ+1ブローイン・ザ・ブルース・アウェイ+1
(2008/01/23)
ホレス・シルヴァー

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 正直言うと、僕はホレス・シルヴァーのあまり良い聴き手とはいえず、さっき確認したところ所有しているCD(リーダー作)は『Song For My Father』と本作『Blowin' the Blues Away』の2枚だけだった。あっ、いや、もう1枚。『ザ・ベスト・オブ・ホレス・シルヴァー』というブルーノートのベスト盤を持っている。で、普段聴くのはもっぱらこのオムニバス盤で、シルヴァーの名曲がずらっと11曲並んでいるから、これだけあれば充分かなぁ、といういい加減な態度である。

 それにしても、ベスト盤11曲(今買えるベスト盤は12曲のようだ)がすべて自作曲だというのは思えばすごいことだ。「作曲の人シルヴァー」・・・ブルーノートのアルフレッド・ライオンは「すべからく新曲作りに勤しむべし」と曲作りを奨励したが、シルヴァーはこのライオンの方針にぴったり嵌った。作った曲の多くはライオンの期待を大きく上回る出来で、初期で言えば「Doodlin'」、「The Preacher」、「Senor Blues」等が大ヒットして、マイナー・レーベルの一つに過ぎなかったブルーノートの財政を救う。かつ、ライオン好みのブルージーでダイナミックかつ繊細なコンピングの名手でもあったから、結果、ブルーノートのハウス・ピアニストの役割を担うことになる。54年〜57年あたりのブルーノート1500番台を幾つか聴けば必ずシルヴァーのピアノにぶちあたる。マイルス、ドナルドソン、ドーハム、モブレイ、ロリンズ、モーガン等々・・・。

 どこかのインタビューでシルヴァーは確か、「ソニー・クラークがブルーノートに入ってきて、バッキングのスタジオ・ワークから開放され、自分のグループの仕事に専念できるようになった」というようなことを言っていた。結果、クラークはスタジオ仕事にがんじがらめになったままそこから抜け出せず、麻薬渦のため夭折するが、シルヴァーはこの時期から自己のレギュラー・バンドを率いて充実した演奏活動を展開する。
 ブルー・ミッチェル(tp)、ジュニア・クック(ts)、ジーン・テイラー(b)、ルイス・ヘイズ(ds)・・・ヘイズは間もなくキャノンボール・アダレイに引っこ抜かれ、ロイ・ブルックス(ds)に変わる・・・のメンバーはほとんど不動で、64年にシルヴァーが一旦グループを解散するまで続く。それどころか、解散後ピアノにチック・コリアを据えて同一メンバーで活動を続けたほどだから、メンバー同士の結束力・信頼関係の強さを物語る。もちろんこれは、シルヴァーの求心力がいかに強かったかの証左でもある。

 シルヴァーには「ファンキー・ピアノの元祖」というレッテルが付きまとうが、このアルバムのなかのトリオ演奏(「Melancholy Mood」、「The St. Vitus Dance」)などを聴いていると、意外にごく普通のハードバップ・ピアノという感じがする。例えば、後継者格のボビー・ティモンズの濃〜いファンク色なんかと比べれば、ファンクの特徴とされるブルース色・ゴスペル色はさほど強調されていない。オーソドックスなハードバップのスタイルに聴こえる。
 考えてみれば、そもそも僕らがハードバップと呼んでいるサウンドの原型を作り出した張本人こそシルヴァーであって、そのシルヴァーを捕まえて「オーソドックスなハードバップのスタイル」などと評すること自体、本末転倒なのかもしれないが、それでもあえて言うなら、シルヴァーのピアノ・トリオは思いのほか地味で退屈に感じる。

 それに引きかえ、2管編成のクインテットでのシルヴァーのバッキングを聴くと、トリオ演奏の比較的シンプルなピアノソロとは対照的に、えげつないほど奏者を煽り立てる強烈なバッキングが目に付く。リズムやビートを叩き出す、バンドをスウィングさせる・・・ってな生半可なものではない。
バンドをドライヴさせる。「ドライヴの人シルヴァー」。
 ArtSaltさんがブログで紹介している”Online Etymology Dictionary”で”drive”の語源を引くと、「Original sense of "pushing from behind," altered in Mod.Eng. by application to automobiles. 」とある。この言葉は、もともとは馬車の御者が馬を駆り立てる動作を言った。「背後からプッシュする」とは正にシルヴァーのバッキングのことではないか!
 まことに、言葉の本来的な意味でバンドをドライヴさせるシルヴァー。「ドライヴの人シルヴァー」。
 なんか自分で妙に納得してしまったのであった・・・。

2008年04月06日 50年代のJazz100枚 トラックバック(0) コメント(2)

In San Francisco / Cannonball Adderley (1959)

Jazz '50s (92)

キャノンボール・アダレイ・イン・サン・フランシスコ+1キャノンボール・アダレイ・イン・サン・フランシスコ+1
(2007/09/19)
キャノンボール・アダレイ

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 1959年のキャノンボール・アダレイには地名入りの名盤が2枚ある。『Cannonball Adderley Quintet In Chicago』(2月)とこの『The Cannonball Adderley Quintet In San Francisco』(10月)である。
 前者は、当時のマイルス・コンボがシカゴに楽旅した際にボス抜きで演ったスタジオ録音盤。翌月には同一メンバー(+ビル・エヴァンス)で『Kind Of Blue』を録音することになる。あるいは、フロントに並ぶコルトレーンは5月に『Giant Steps』(の本テイクのほとんど)を録音することになる。といった流れの中で語られる時、どうしてもリーダー=キャノンボールの存在感が希薄になってしまうアルバムではある(僕は大好きだが・・・)。
 一方、後者は、『Kind Of Blue』の後マイルス・コンボを抜けたキャノンボールが、弟のナット・アダレイ(cor)をフロントに加えて結成したレギュラー・クインテットの西海岸でのライヴ録音。リバーサイド・レーベルと専属契約後の初アルバムであると同時に、キャノンボールのファンク路線の端緒となった一枚である。

 サンフランシスコの”The Jazz Workshop”に於けるキャノンボール・バンドのライヴは1959年10月中に約4週間に渡って行われたが、最終日の最終曲となった「Hi-Fly」の演奏が終わると、やんやのスタンディング・オベイションが15分以上鳴り止まなかったそうな。このギグの大成功により、アダレイ兄弟は一躍時代の寵児となり、このバンドはファンキー・ジャズ、ソウル・ジャズの流れを牽引するトップ・バンドと目されることとなる。このアルバムの後、翌年の『Them Dirty Blues』からジョー・ザビヌルを擁した後期の『Mercy, Mercy, Mercy!』に至るまで、ファンク路線のヒット作が並ぶ。

 50年代のアルト奏者の宿命として”New Bird(第二のパーカー)”のレッテルを貼られたキャノンボールだったが、マイルス・グループでのキャノンボールは、ハードバップ・イディオムでの究極を行くような稀有なプレイを展開していただけに、彼のコード・アドリブの妙技を賞賛する向き(僕も含めて・・・)は、このファンキー・バンドの演奏を、軽薄で悪乗りしすぎ、安易なポップ路線への迎合として、よく聴きもせずに切り捨てたものである。
 が、今更ながらここでの演奏をジックリ聴いてみれば、ブルース・コードとペンタトニック一発みたいな演奏でも、キャノンボールのプレイはよく考え抜かれた知的でテクニカルなアドリブであり、弟ナットを含めサイド陣のプレイも、個性的でレヴェルの高い演奏の連続である。

 蓋し、ピアノにジャズ・メッセンジャーズに居たボビー・ティモンズを、ドラムスにホレス・シルヴァーのレギュラー・ドラマーだったルイ・ヘイズを据えた時点で、このキャノンボール・バンドの旗幟はあまりにも鮮明であって、JMとシルバーという二大ファンキー・バンドに追従したというよりは、明確な意図をもってこれらのバンドを凌駕する決定的なファンキー・サウンドを目論んでいた、と言わざるをえない。少なくとも、キャノンボールはやりたいことをやりたいようにやったのであり、メンバー達もそれを可能にする資質と実力を備えていた。

 キャノンボール自身、このライヴのアナウンスで「ソウル・ジャズ」という言葉を使っているが、昨今のブラックミュージック・ファンにとって、ファンク、ソウルの元祖といえばジェームス・ブラウンあたりを思い浮かべるはずだ。そのブラウンの実質デヴューは1956年。エルヴィスの「Heartbreak Hotel」も1956年。このあたりからのファンキーなジャズは、親戚筋のR&BやR&Rとの相互影響を考慮しないと語れないのかもしれない。あるいは、公民権運動の高まりとの兼ね合いでの”黒”の強調。すでに、ジャズというジャンル内部の自己充足的な影響関係だけでは推し量れない時代に入っていたのかも、と思う。が、僕にはこの辺を整理する知識と興味がない。

 例えば、50年代中葉から隆盛したハードバップは、最初から相反する二つのベクトルを内包していた、とあえて極言してみる。一つは、ビ・バップの承継として、コード進行に基づく先鋭かつ個性的なアドリブを追求する、というスタンス。もう一つは、逆にビ・バップの喧騒で複雑かつ単調なアドリブに対する反省として、よりシンプルで分かり易い(すなわちポップな)サウンドを求める方向性。ハードバップは、この二つの方向性の微妙なバランス感覚で成り立っていた、といえる。R&BやR&Rといったポップ音楽が隆盛し、このバランスを司っていた”ジャズ”というブランドそのものの求心力が薄れていくと、それは二つのベクトルに引き裂かれる。
 コルトレーンは、『Giant Steps』でコード・アドリブの限界を突き抜け、モードからフリーへ、アドリブの極北に突っ走る。もう一人のマイルスの愛弟子キャノンボールは、アドリブの方法論的な進化には見切りをつけ、ひたすら明るく楽しいジャズを追い求める。

 キャノンボールを聴きながら、こんな妄想をしてしまった・・・。

2008年03月29日 50年代のJazz100枚 トラックバック(0) コメント(0)